花冷えの夜に

(■これは「散歩主義」にも書いたものです。)

深夜の豪雨の後、ゆっくりと天気は回復したけれど、とうとうすっきりしなかった。
夜になって冷えてきた。
今夜の花見は冷えるから用心しないと風邪をひきそう。

京都新聞で「世相解剖」というおもしろい企画がスタートした。
社会学比較文化、経済論の学者三名がホストになり、毎回一人のゲストを迎えて、「世相を解剖」してもらう、というもの。

第一回は京大助教授の小倉紀蔵さん。専門は東洋哲学。
今の日本社会を「おれちん」が跋扈しているという。

おれちん」とは「おれさま」と「ぼくちん」を掛け合わせた、小倉さんによる造語。
どんな人間かというと、自己中心手的で尊大だが、自閉的というタイプ。

記事の中に出てくるスケッチとしては、
●「おれちん」は威張っているが、依存心が強く、しかも依存の対象を破壊するぐらい強い自己を持っている。
それは例えば
●同居する家族を殺してしまう現代の事件でもそうしたタイプの人が浮かぶ。
精神的に家族に依存すると同時に反抗して破壊してしまう。

●プレモダン、モダン、ポストモダンの悪いところばかりが重なっている。

その「おれちん」がどう成熟していくのか。
さらに自閉していくのか。
結局、問われているのは「他者性」というところになりそうだ。
他者とどう関わるか、ということ。

ぼくはこのことと小説や詩がリンクしていると感じた。
つまり、小説とは人と人の関係性を描く、という大事な側面があるからだ。それこそが小説だ、という人もいる。
そして詩は、「私」を語ることからしか始まらない。と、しても、
しかし、それは時として陳腐なものに堕してしまう。

文学は、世界のなかで、徹頭徹尾、孤立しているのか。
あるいは孤立の中から結ばれようとするのか。
だとすればどのように。誰と。
あるいは結ばれることを拒否するのか。
だとしたら何故。

それとも、どこかから「決壊」していくのか。

おれちん」というモデルを初めて知ったので、詳しくは著書を読まなければならないけれど、
仮に「おれちん」が成熟せずに窒息していくのだとしたら、他者に開いていくヒントは恋愛にある気がする。
開かれざるを得まい。
会社で、社会で、全能感を木っ端みじんに打ち砕かれるよりましだろう。

あるいは、もう一方に「おれちん」を見限り、あらたな関係性を獲得しようと行動する人たちもいるだろう。
女性…かな。いや男性もあり、か。

今書いている小説と微妙にリンクするところがあって、いろいろと考えているところです。