指先から生まれる

今日もキーボードに向かっていた。
なんだかぼんやりと気怠いので
キーボードの位置を変えてみた。気分はあまり変わらない。
だいたいこのキーボードとは最初から相性が悪い気がする。
「Shift」キーの位置はずっと手になじまないままだし、
キーボードそのものを変えてみようかとも思う。

そもそもパソコンは目にも悪いし、電磁波の影響もあるから身体にも悪い。
そのうえこれだ。
だけど作品を打ち始めると、止まらなくなる。
そして疲れる。

不安になる。
これでいいのかと思う。
苦しくなる。
それでも無理矢理打ち出すと、物語がまがりなりにも動きはじめる。
動き出した物語を前に進めることが、やはり好きなのだ。
いや、それ以外に苦しみから逃れる方法はない、といったほうが正解だろう。


先輩である某高校の校長先生と珈琲を飲んでいたら、
学校運営の長期プランを一人黙々とパソコンに打ちこんだんや、
といってレジュメを見せてくれた。
とにかく肩が凝ってしかたがない、とか内容の話をする前に
パソコンに向かう肉体的なしんどさの話ばかりが
続いた。

ある年齢になると、長時間PCに向かっているのはは辛い。
手首と首と肩と目と…。
それでも紙で書いて作り上げることは、あまりやらないという。

PCならではの書き方である。
様々なファイルに書き込み、データを取込み、
ファイルにためた記事を画面上で組み合わせたり、組み替えをし、
データを添え、文章を整えていく。
すると、うんうんと唸るほど、身体が辛くなってくるんだ、という。



柴田元幸と9人の作家たち」という本の中で、巨大なモニターを部屋に片側に置き、
本人はべッドの上でキーボードを打つというリチャード・パワーズが紹介されていた。
今日、ぼくはそれをまねしてやってみた。
あぐらを組んでそこにキーボードを置いてやってみた。なかなかいいんだけれど
同時キーの時にキーボードがふらつく。打ちにくい。
パワーズが使っているキーボードもマウスもコードレスだが、打ちにくくないのか。

リチャード・パワーズの「舞踏会へ向かう3人の農夫」をとても愉しく読んだ。
ずっと注目したい作家の一人である。
「ベッドの上で遠くのモニターの大きな字を見ながら打つ」というのは
柴田さんも指摘しているけれど逆説的に「機械から逃れる」やり方のようにも思える。

「書く現場」というのは作品にとって「子宮」ともいえる空間なのだから
「個人的仕様」にこだわるのは当然のことかもしれない。
それも徹底的に。

先程の校長先生は、枕元にメモ用紙を積んで寝る。ジェルインクのボールペンを添えて。
たぶんベッドがコメントやプランの「子宮」なのだろう。