御室マジック

ある方から御室桜の「ミニチュア版」を頂いた。
御室桜は御室仁和寺特有の桜で、
開花時期はソメイヨシノと八重桜の間ぐらい。これからだ。

実はこの盆栽のような御室桜は、嵐電御室駅の前にあるお店でしか売っていない。
昔から御室で庭師の仕事を続けてこられたところなので
地元の桜を育てるノウハウをお持ちなのだと思う。

この桜をぼくは地植えにしようとして失敗し、枯らしたことがある。
またチャンスをいただいたわけだ。

桜というのはとてもデリケートで、枝を折っただけで枯れることもあるし
それこそ「桜守」が必要なのだ。
特に苗のうちは水やりや病気に細心の注意が必要だ。

花が終わったら、今回は地植えにせず、鉢で育てていこうと思う。
その際、用土と鉢の大きさが問題になる。
いきなり大きな鉢に移してはいけない。大きく育つどころか枯れてしまうおそれもある。
ほんの少し、本当に一回りだけ大きい鉢に移す。

そして用土だ。
お店のお婆さんはとにかく「なんでもかんでも赤玉土」という人で
ぼくはそのとおりに赤玉土だけで育てようとして枯らしたのだった。
絶対、土に問題があるとおもっていたのだが
そのお婆さんも昨年亡くなってしまった。

だけど、もしお婆さんが元気で、今回、改めて育て方を訊いたとしても
「あかだまだけでよろし」というに違いない。

現在のお店の人たちに訊いてみた。
すると
赤玉土だけでいいんですう」
訊いた私がアホだった。
お婆さんの指示は徹底して貫かれていた。

手にした鉢も赤玉土しか入っていない。そしてちゃんと咲いているんだから不思議だ。
赤玉だけなんて誰にいっても信じてもらえないのだが…。
「御室マジック」を信じてみるか。

黄砂の日

空気が一日中黄ばんでいた。
黄砂が吹き込んできたというより、停滞しているような感覚である。
よく見ると窓に微細な砂粒がへばりついている。
路上の車も、洗濯物も黄砂を浴びている。

Google Earthがネット上に登場してから
地球上の様々な「地誌学」的な情報を個人が手にできるようになった。
例えば、能登半島地震の同じ日に、太平洋上のバツアヌ付近で
能登半島を上回る地震が起きていたことも知られているし、

中国大陸から東シナ海、西日本にかけて、靄のようなうすいガスに覆われていることも
明らかになった。
大陸の排気ガスである。
今回もゴビ砂漠で大規模な砂嵐が吹き荒れたことがwatchされている。


海に囲まれた島国にも「隣国」があり、
そこの砂漠とも無関係ではいられないということだ。
地球がひと繋がりだということを、今まで以上に意識させられている。

指先から生まれる

今日もキーボードに向かっていた。
なんだかぼんやりと気怠いので
キーボードの位置を変えてみた。気分はあまり変わらない。
だいたいこのキーボードとは最初から相性が悪い気がする。
「Shift」キーの位置はずっと手になじまないままだし、
キーボードそのものを変えてみようかとも思う。

そもそもパソコンは目にも悪いし、電磁波の影響もあるから身体にも悪い。
そのうえこれだ。
だけど作品を打ち始めると、止まらなくなる。
そして疲れる。

不安になる。
これでいいのかと思う。
苦しくなる。
それでも無理矢理打ち出すと、物語がまがりなりにも動きはじめる。
動き出した物語を前に進めることが、やはり好きなのだ。
いや、それ以外に苦しみから逃れる方法はない、といったほうが正解だろう。


先輩である某高校の校長先生と珈琲を飲んでいたら、
学校運営の長期プランを一人黙々とパソコンに打ちこんだんや、
といってレジュメを見せてくれた。
とにかく肩が凝ってしかたがない、とか内容の話をする前に
パソコンに向かう肉体的なしんどさの話ばかりが
続いた。

ある年齢になると、長時間PCに向かっているのはは辛い。
手首と首と肩と目と…。
それでも紙で書いて作り上げることは、あまりやらないという。

PCならではの書き方である。
様々なファイルに書き込み、データを取込み、
ファイルにためた記事を画面上で組み合わせたり、組み替えをし、
データを添え、文章を整えていく。
すると、うんうんと唸るほど、身体が辛くなってくるんだ、という。



柴田元幸と9人の作家たち」という本の中で、巨大なモニターを部屋に片側に置き、
本人はべッドの上でキーボードを打つというリチャード・パワーズが紹介されていた。
今日、ぼくはそれをまねしてやってみた。
あぐらを組んでそこにキーボードを置いてやってみた。なかなかいいんだけれど
同時キーの時にキーボードがふらつく。打ちにくい。
パワーズが使っているキーボードもマウスもコードレスだが、打ちにくくないのか。

リチャード・パワーズの「舞踏会へ向かう3人の農夫」をとても愉しく読んだ。
ずっと注目したい作家の一人である。
「ベッドの上で遠くのモニターの大きな字を見ながら打つ」というのは
柴田さんも指摘しているけれど逆説的に「機械から逃れる」やり方のようにも思える。

「書く現場」というのは作品にとって「子宮」ともいえる空間なのだから
「個人的仕様」にこだわるのは当然のことかもしれない。
それも徹底的に。

先程の校長先生は、枕元にメモ用紙を積んで寝る。ジェルインクのボールペンを添えて。
たぶんベッドがコメントやプランの「子宮」なのだろう。

花冷えの夜に

(■これは「散歩主義」にも書いたものです。)

深夜の豪雨の後、ゆっくりと天気は回復したけれど、とうとうすっきりしなかった。
夜になって冷えてきた。
今夜の花見は冷えるから用心しないと風邪をひきそう。

京都新聞で「世相解剖」というおもしろい企画がスタートした。
社会学比較文化、経済論の学者三名がホストになり、毎回一人のゲストを迎えて、「世相を解剖」してもらう、というもの。

第一回は京大助教授の小倉紀蔵さん。専門は東洋哲学。
今の日本社会を「おれちん」が跋扈しているという。

おれちん」とは「おれさま」と「ぼくちん」を掛け合わせた、小倉さんによる造語。
どんな人間かというと、自己中心手的で尊大だが、自閉的というタイプ。

記事の中に出てくるスケッチとしては、
●「おれちん」は威張っているが、依存心が強く、しかも依存の対象を破壊するぐらい強い自己を持っている。
それは例えば
●同居する家族を殺してしまう現代の事件でもそうしたタイプの人が浮かぶ。
精神的に家族に依存すると同時に反抗して破壊してしまう。

●プレモダン、モダン、ポストモダンの悪いところばかりが重なっている。

その「おれちん」がどう成熟していくのか。
さらに自閉していくのか。
結局、問われているのは「他者性」というところになりそうだ。
他者とどう関わるか、ということ。

ぼくはこのことと小説や詩がリンクしていると感じた。
つまり、小説とは人と人の関係性を描く、という大事な側面があるからだ。それこそが小説だ、という人もいる。
そして詩は、「私」を語ることからしか始まらない。と、しても、
しかし、それは時として陳腐なものに堕してしまう。

文学は、世界のなかで、徹頭徹尾、孤立しているのか。
あるいは孤立の中から結ばれようとするのか。
だとすればどのように。誰と。
あるいは結ばれることを拒否するのか。
だとしたら何故。

それとも、どこかから「決壊」していくのか。

おれちん」というモデルを初めて知ったので、詳しくは著書を読まなければならないけれど、
仮に「おれちん」が成熟せずに窒息していくのだとしたら、他者に開いていくヒントは恋愛にある気がする。
開かれざるを得まい。
会社で、社会で、全能感を木っ端みじんに打ち砕かれるよりましだろう。

あるいは、もう一方に「おれちん」を見限り、あらたな関係性を獲得しようと行動する人たちもいるだろう。
女性…かな。いや男性もあり、か。

今書いている小説と微妙にリンクするところがあって、いろいろと考えているところです。

詩を書いたり、音楽を聴いたり

昼からの雨は夜になっても降っている。
夕方、漢詩を読んでいるうちに自分でも書きたくなって
五言絶句をひねり出す。

だけど中国語も漢字は表意文字だけれど、たぶんに表音文字の要素も強く
英語同様、韻を踏むことが詩の成立の重要な要素になっている。
それは例えば英語だとラップに至るまでそうだ。

日本語は表意文字だ。だから「日本的」五言絶句は漢字の意味にこだわる。
ぼくも書きながら自分でそうだなあ、と感じていた。

だからラップ系や陽水なんかの場合は言葉を一度「音」にばらしてしまう作業が不可欠なんじゃないかな。
というか、意味はある程度無視して、音から組み上げた詞なんだとおもう。
そのあたりを当意即妙にできるのが職人技なんだろう。

漢詩をいろいろ読んで感じたのは、「私」という字がなかなか登場しないこと。
「我」はあるけれど、少ない。「君」はけっこうある。
視点が三人称の詩が多い。それだと自分の背中も詠える。

夜。
音楽はネヴィル・ブラザーズ。
Bird on a wireのネヴィルズ・ヴァージョンは大のお気に入りだ。